11月8日 「最高裁による小沢イカサマ検審起訴議決」は「国家権力の堕落」の表れ!

 文芸評論家・哲学者山崎行太郎氏が、『検察や最高裁の「暗部」や「恥部」が暴露され、社会的に重要問題として話題になること自体が、日本の国家的危機である』と警鐘を鳴らしている。
 
 皆様もそのことに気づいてほしい。


 11月8日の山崎行太郎ブログを以下に転載する。

『 最高裁の罠』とは何か。『最高裁の罠』を読むと国家権力の恐ろしさが分かる!!!ー「小沢裁判」と「最高裁スキャンダル」再考(17)

 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20121108/1352323113
 
 僕は、本質的に国家主義者である。アナーキストでも社会主義者でも、ましてや革命主義者でもない。つまり、国家が、危急存亡の危機に直面するような場合、現在の国家体制を維持していくためには、国家権力は何をやってもいいとさえ思っている。しかし、余程の未曾有の国家存続の危機に直面しないかぎり、たとえば戦争や革命、あるいは軍事クーデターにでも直面しない限り、国家及び国家権力は、その「牙」を剥き出しにすべきではないと思っている。国家及び国家権力は、合法的に人を殺すことが許された唯一の存在である。マックス・ウェーバーも言うように、国家は、一種の「暴力装置」であり、ウォールター・ヴエンヤミン的に言い換えれば、「法の下には暴力が秘められている」ということだ。しかし、平和な時代には、その「暴力」が顕在化することはない。国家の暴力装置が発動されるのは、国家が危機的状況に陥った時である。小沢事件や小沢裁判における検察、最高裁、官僚、マスコミ・・・など既得権益層の動きを見ていると、その「危機感」と「必死さ」に、「何を勘違いしているのだろう」と、思わず笑いたくなる。「政権交代」や「小沢一郎首相」をそれほど恐れる必要があったのだろうか。国家権力が、返り血を浴びる覚悟で、その「牙」を、つまり「法的暴力」を剥き出しにして、特定の政治家に対して襲い掛かる必要があったのだろうか。小沢一郎は確かに、保守派政治家というよりは「改革派政治家」かもしれない。しかし、現在の日本の国家体制を危うくするような「反国家主義者」ではない。せいぜい、戦後的な「自民党支配」「官僚支配」「米国支配」体制を打破、改革し、新しい健全な民主主義体制を再構築していくという程度の、かなり穏健な改革派政治家でしかない。私は、小沢事件や小沢裁判という政治的な謀略・陰謀事件は、現在の日本の国家体制を支えている支配層の思想的堕落を象徴する事件だったと思っている。彼らは、「政権交代」と「小沢一郎首相」の登場を、「革命」か「クーデター」レベルの国家的危機と勘違いしたのである。もちろん、彼ら支配層の思想的堕落がもたらした勘違いである。特に、検察や最高裁というような「国家そのもの」とも言うべき暴力装置までが、「政権交代つぶし」「小沢一郎つぶし」に加担したと言うことの意味は、大きい。その結果、国民や一般市民の反撃にあい、大恥をかいたわけだが、検察や最高裁の「暗部」や「恥部」が、これほど暴露されるということは、むしろ、そのことの方が、現在の国家体制の危機を表している。検察や最高裁・・・が、社会的に重要問題として話題になること自体が、日本の国家的危機である。これは、日本という「国家の弱体化」「国家権力の堕落」が進んでいるということである。自民党や、自民党の御用文化人の巣窟と化した保守論壇が思想的に地盤沈下し、脆弱になり、つまり「愚者の楽園化」した結果、勘違いした上に、異常な「小沢一郎批判」「小沢一郎罵倒」に熱中するのは分からなくはない。しかし、検察や最高裁までが、「小沢一郎批判」「小沢一郎罵倒」に加担し、熱中するとは、日本の国家権力の中枢部までが、自民党、保守論壇とともに腐食し、悪臭を放ち始めていると言うことであろう。
 
 以下は、志岐武彦氏のブログからの引用である。

 下記のURLから読んで下さい。
 http://civilopinions.main.jp/2012/11/116_1.html

2012年11月 8日